名作

昔教科書に載っていた名作

しあわせの汽車ポッポ
渡辺哲雄

蒸気機関車という乗り物を知っていますか?今ではもう見ることはできませんが、それはレールの上をもくもくと煙を吐いて走る真っ黒な列車です。ディーゼル列車や、電車と競争すればもちろん負けることは決まっていますが、それでもシュッシュッシュッと白い蒸気を吹き上げながら進む黒い大きな体には、まるで乗り物の王様のような風格がありました。 
ボーッ 
汽笛が鳴り響きます。 
すると、駅の屋根にとまっていたスズメたちが驚いて一斉に飛び立ちます。 
シュッシュッポッポッ、シュッシュッポッポ! 
力強い音を立てて、今日も汽車は田舎の駅を出発しました。 
「姉ちゃん、来よっよ!汽車ポッポが来よっよ!」 
駅からほんの少し離れたところにある踏み切りから体を乗り出すようにして、良太はお美代の手を握り締めました。 
シュッシュッポッポッ、シュッシュッポッポ! 
おなかの底からゆさぶられるような音がだんだん近づいて来ます。
ボーッ! 
もう一度汽笛が鳴ると、お美代の背中で眠っていた赤ん坊が目を覚まして火がついたように泣き出しました。 
「汽車ポッポだ!汽車ポッポだ!」 
目の前を通る真っ黒な列車に、良太は大はしゃぎです。ものすごい音が三人を包んだと思うと、あっという間に遠ざかり、あとには赤ん坊の泣き声だけが残りました。 
「さあ、今日はもう終わりばい。また明日来るけんね」 
汽車を見送ったあとでお美代がそう言うと、 
「うん…」 
とうなずいた良太の上に真っ赤な夕焼け空が広がっています。お美代の影が長く長く伸びて、お美代は何だか影だけが大人になったような気がしました。 
(あんこと、おっかしゃんに頼んでみるけん…)
きれいな夕焼け空のせいでしょうか、お美代の心は久しぶりに弾んでいたのです。
「おっかしゃん…」 
その晩お美代はためらいがちに切り出しました。たった今夕ご飯を済ませたばかりだというのに、おっかしゃんはもうせっせと内職をしています。 
「良太ば、汽車に乗せてやりたかね」 
「…」 
「あがん汽車の好いとる子じゃけん、線路んわきで見るだけでは可哀そかばい。たったひと駅でよかたい。乗せてやりたかね」 
「そがん銭はなか」 
おっかしゃんは仕事の手を休めずに言いました。 
「おとうの入院代と、お前たちを食わするだけで、うちん暮らしは精一杯たい。そんくらいわかっとっとじゃろうが」 
「わかっとっさ。わかっとっけん今日までなんも言わんかったやろう。そうばってん明日は良太の誕生日たい。誕生日くらいあん子を汽車に乗せてやってんよかとじゃなかね」 
「わからんこつば言うて…。そがん銭はうちにはなかとよ。辛抱せんばたいお美代」 
「ひどか、おっかしゃんはひどかよ!うちはいくらでん辛抱するばってん、いや、辛抱しとったい。みんな行く学校にもうちは行っとらん。ほかん子んごと、きれいか着物もうちは欲しがらん。小遣いもいらん。菓子も食わん。ばってん良太は可哀そかばい。汽車ば見っとあがん喜びよる。乗せてやりたか。一回でよかけん、乗せてやりたかね」 
「乗せてやりたかこつはおっかしゃんもおんなじたい。そいばってん、銭のなかことはどがんもしょんのなかたい。おとうの怪我も相変わらずやけん、ほんなごて、借金せんでどうにかやって行かるっとが不思議なくらいたい。貧乏耐えるには、なんも欲しがらんこったい、お美代」 
「うちは…うちは貧乏が好かんたい!」 
お美代は叫びました。けれど、叫んだとたんにお美代は左ほほを押さえてその場にわっと泣き伏さなくてはなりませんでした。おっかしゃんの平手がお美代の頬で嫌というほど大きな音を立てたのです。
「だいでん、好きで貧乏しとるもんはおらん!」 
おっかしゃんは言いました。 
「うちは、おとうの生きとるだけまだしあわせたい!あん時の炭坑の事故では、生き埋めんなって死んだもんの方が多かったとよ。学校へ行かれんとがなんね、着物ば着られんとがどがんしたというとね。家族そろってこの世に生きとるしあわせに比ぶれば、汽車に乗られんぐらい何でんなか。自分のしあわせに気のつかんもんは馬鹿たい!」 
おっかしゃんは珍しく本気で怒っていました。そのくせ、お美代に負けないくらいボロボロと涙をこぼしているおっかしゃんが、お美代にはどうしてもわかりませんでした。
 その晩お美代は、なかなか眠ることができませんでした。目を閉じると涙を流しながら怒っているおっかしゃんの顔が浮かんで来ます。悪いことを言ったつもりはありませんでしたが、おっかしゃんをひどく悲しませたことだけはよくわかりました。 
ふすまの隙間から灯りがもれています。 
「おっかしゃん?」 
お美代が声をかけました。 
良太と赤ん坊の寝息が聞こえています。 
「まだ、怒っとるとね」 
「いや、もう怒っとらん。叩いたりして悪かったと思うとる」 
おっかしゃんが答えました。 
「ほんとはね…お美代」 
「ん?」 
「ほんとは…おっかしゃんも貧乏は好かんたい」 
おっかしゃんはそう言うと、ふすまの向こうでクスクスと笑いました。 
それを聞くとお美代は何だかとても安心して、一緒にクスクスと笑ったあとで、ほっとため息をつきました。
(貧乏でん仕方んなか。うちはおっかしゃんの子でよかったったい)
その時お美代は心の底からそう思っていたのです。
 次の朝目が覚めると、いつものようにもうおっかしゃんの姿はありませんでした。男の人と同じように、朝早くから炭坑へ働きに行ったのです。テーブルの上の白い布巾を取ると、朝ご飯と一緒に小さな紙包みが置いてありました。 
『良太、誕生日おめでとう。汽車に乗せてもらいなさい』 
そう書かれた紙包みからは小銭がバラバラッとこぼれ落ちて、お美代はびっくりしました。 
「良太、起きらんね!汽車よ、汽車に乗らるっとよ!」 
その日はもう、朝ご飯どころではありませんでした。赤ん坊を背中にくくりつけ、良太の手を引くと、お美代は駅に向かって一目散に駆け出しました。 
「汽車よ、汽車に乗らるっとよ!」 
良太よりもお美代の方がはしゃいでいました。 
汽車は、お美代たちを待っていたかのように駅に停まっていました。 
「良太、汽車よ!とうとう汽車に乗ったとよ!」 
良太を窓側に座らせて、お美代は言いました。 
「こいが良太の大好きな汽車ばい。よう覚えとかんね。おっかしゃんのおかげで、お前は汽車に乗ったとよ!」 
ボーッ! 
汽笛が鳴り響きます。 
シュッシュッポッポッ、シュッシュッポッポ! 
ゴトリ…ゴトリ…と車輪が回り、ゆっくりと汽車が動き始めました。 
お美代も良太も窓から体を乗り出すようにして外の景色を見つめています。 
駅が離れて行きます。 
そして、いつもお美代たちが汽車を見送る踏み切りが、あっという間に遠ざかります。 
「走った!汽車が走ったとよ!」 
お美代が良太の肩を抱いて言いました。 
けれども喜ぶはずの良太は何だか不思議そうな顔をしています。 
「どがんしたとね、良太?汽車が動きよっとよ。お前は今、汽車に乗って走っとっとよ」 
お美代が説明すればするほど良太は不思議そうな顔をして、とうとう泣き出してしまいました。 
「汽車ポッポが見えん、汽車ポッポが見えん」 
「なんば言うとね、お前は今、汽車に乗っとうとよ。こいがお前の好きな汽車ばい。この床も、椅子も、窓も、みんなお前の大好きな汽車ポッポたい」 
「汽車ポッポが見えん、汽車ポッポが見えん」 
良太は泣き止みませんでした。次の駅に着くまで、良太はずっと泣き続けていました。 
「お前は汽車に乗っとうとよ。乗っとっけん汽車は見えんたい。そいけん確かに今、お前は汽車に乗っとったい」 
一生懸命説明しながら、お美代は悲しくなりました。悲しいくせに笑いがこみ上げてきます。笑いながら涙があふれて来ました。 
「自分のしあわせに気のつかんもんは馬鹿たい!」 
おっかしゃんの声が聞こえたような気がしました。そして、良太をしっかりと抱きしめながら、お美代はその時、ぼんやりとしあわせだったのです。